怜がそれまでの生活を捨て、北の大地に生きる決心をしたのは、仕事も順調に運んでいた最中の事。
親の跡目を継がなかった友人の父君と、出先でばったり再開したのをきっかけに、物見遊山気分で父君の経営する牧場に逗留した。
初めて見る牧場の熱気は、都会育ちの彼には大層刺激的で、身中に晴れやかな、少年めいた高揚感が沸いてくる。
頭の中でぱちぱちとそろばんを弾いた。今の自分なら、牧場の経営はできなくても、馬主にはなれるかもしれない。指南役には恵まれている。資金も十二分に在る。今の会社で出世するのも悪くない。親の会社経営も控えている。
強欲なのはわかっている、けれど、何か足りない。満たされない思いを晴らしてくれる、何かがほしい。
ここに答えがあるのではないのか?
時、あたかも春。
人生設計を考え直していた怜の元に、知らせが届く。
<改ページ>
銀行の行員が、妻共々惨殺される事件が起きた。
二才になったかならずの子供を残してふたりは逝った。
後にわかったことでは、妻の胎内には新たな命の芽生えがあったという。
犯人は、約束手形を二度まで焦げ付かせ、行員が勤めていた銀行に取引停止された経営者。
「あの男がいけないんだ」
取調室で、経営者は叫んだ。
「あと数日待ってくれたら、資金は何とかなるかもしれないから、とあんなに頼んだのに。あの男は信じちゃくれなかった。会社は人手に渡った。家も売った。家族は妻子共々どこかへ雲がくれ、ばらばらになった。あの男が、家族と会社を奪ったんだ。あいつが首を縦に振ってくれさえすれば」
自分本位だからあれもこれも失うということを、この経営者は知らない。滅びるならひとりで滅びればいいのに。
怒りを持って拳を握って振り上げても、下ろす先がない。
殴りたいのは、殺した男か? 殺された男か?
拳に血が滲むほど壁に打ち付けて、怜は思った。
都会には思惑が溢れている。その中を泳ぐ己が快感だったが、全てが色褪せて見える。どれほどのことだったと。
立回りばかり上手くなっても何の悦びもない。
殺された銀行員は、彼の少年期から学生時代を共にした数少ない親友。
怜が望むものを捨てた友人は、彼が持つ嫉妬心に気づきながら向き合って話すことはなかった。