……
明良と菜々子はソファーに並んで座り、食後のコーヒーを飲んでいた。
「お料理、お上手ですね。」
「お口に合って良かった…」
明良の言葉に、菜々子はほっとして言った。明良は、菜々子の手料理を残さず食べてくれた。体つきから見て、さほど食べない様に思ったのだが…。
明良が持ってきた薔薇の花束は、早速花瓶に入れて、ダイニングテーブルに置いている。
…玄関を開けた時、薔薇の花束を持った明良の姿を見て、菜々子は驚いた。
「…その…お詫びです。」
照れ臭そうに、そう言いながら花束を差し出す明良の姿に、菜々子は自分の首筋まで赤くなっているのがわかった。
……
「普段は…コンビニ弁当で…」
明良が頭を掻いた。
「!明良さんが、コンビニに行くんですか?」
「ええ…そりゃ行きますよ。」
「大騒ぎになりません?」
「なりませんよ。逆に気付いてくれる人の方が少ない。」
「そんなこと…」
菜々子は驚いた。
「…本当です。…ほとんど忘れられていると思いますよ。」
「…うそ…」
信じない菜々子に、明良は苦笑した。
「…だから、川を見ている時に、あなたが私の名前を呼んでくれた時は…嬉しかった…」
「!…」
「まるで知り合いのように呼びかけてくださいましたね。」
「明良さんだって…」
「菜々子さんは毎日のようにテレビで見ていたから…そりゃ、あなたのことはわかりますよ。」
菜々子は首を振った。
「僕が引退を考えたのは、それもあったんです。このまま業界から消えてしまうのかな…と漠然と思っていました。それもいいけど、はっきり引退という形を取った方がいいのか…とか…」
「歌が聞こえたような気がするんですけど…歌ってました?」
「え?聞こえていたんですか?…小声で歌っていたつもりなんだけどな…」
「風に乗って、少しだけ…。悲しい歌のように聞こえましたけど…」
「!…」
明良はソファーにもたれて、苦笑した。
「明良さんの歌?」
「いえ…この歌知りませんか?」
そう言って明良は歌いだした。
スメタナの「モルダウの流れ」だった。
菜々子も聞いたことはあったが、歌詞までは知らなかった。
「モルダウの川の流れは、今も昔もずっと故郷を守っている…」というような意味だった。明良の声はテレビで聞くより澄んでいて、何か心が落ち着くようなそんな声だった。
「…悲しいメロディーですね。」
菜々子が言った。明良は少し涙ぐんでいるように見えた。
「…歌いながら、僕を守ってくれていた、死んだ姉のことを思い出していました。」
「あ…血がつながっていないという…。お母さん代わりに明良さんを育ててくださったんですよね。」
「ええ…。私がアルコールで死にかけたのをご存じだと思うんですが…」
「もちろん。とても話題になっていましたもの…。その時にお姉さんのお話も出て…。…あの時、相澤さんのために、死のうとなさったんですってね。」
明良は恥ずかしそうにした。
「…若かったんですよ。今思えば、もっと違う方法もあっただろうに。…でも、あの時も死んで構わないと思ってた。」
「あの時も…って…」
「ああ!すいません…。死ぬ気は今はないですよ。…姉とも約束しましたしね。…夢の中で…」
「夢の中?」
「ええ…。ワインを飲んで倒れた時、姉に会う夢を見たんです。…いつの間にか、僕はどこかの川辺に座っていたんですが、姉が横に座って…。」
「!…」
(三途の川なのかしら…)と菜々子は思った。
「姉に帰るように言われました。僕はもう独りじゃないからと…。そして、人並みに恋をして、人並みに家族を持って、自分の分まで幸せにならなきゃいけない…と、そう言われたんです。」
「……」
菜々子は何も言葉が出ず、明良の言葉を待っていた。
「…川を見ていた時、その姉の言葉を考えていました。それでその歌を…。…いつになったら、そんな日が来るんだろう…と思っていたら…あなたが…」
明良は菜々子に向いた。
「…一瞬、姉が立っているかと思いました。」
菜々子はとまどったように下を向いた。
「すいません…死んだ人に似ているなんて、嬉しい話じゃないですね。」
「いえ…でも…私じゃお姉さんの代わりにはなりません。」
「姉の代わりをしてもらおうだなんて思っていません。…でも、本当に嬉しかった…」
明良が菜々子の手を取った。菜々子は明良に体を寄せた。明良はそのまま菜々子を抱いて唇を重ねた。
(もしかすると…私はお姉さんに呼ばれたのかな…)
菜々子は、明良の長い口づけを受けながらそう思った。それなら、あの不思議な感覚の説明がつくような気がした。
(終)