【第五話:一番怖いものは】
クラス対抗戦。
アリーナの中央で睨みあっている二人の姿があった。
ISを起動させている一夏と鈴だ。中に浮いている二人は睨み合い、言葉を交わす。
しかしその言葉は二人にしか理解できないものであり、またそれを他の者に理解させる努力など一切していない。
どちらが悪い、というものではない。
勘違いをしている一夏が悪いのかもしれない。
説明をしない鈴が悪いのかもしれない。
だが。
「……ほんと、鈴ちゃんも一夏君も不器用だよね」
「春日さん、どうかした?」
「ううん、何でもないよ。ただ……」
「え? ただ、何?」
秋穂の顔に不安はない。
「ちょっと楽しみかなって」
秋穂の顔には笑みがあった。友人である二人が戦うのだ。苦しい思いをするかもしれない。
そう思っていたが、今はもう違う。
二人の間にある空気がむしろ羨ましくもある。
全力で相手にぶつかっていく。
『みんなと仲良くしたい』。意地の悪い言い方をする者がいれば、それは八方美人だと言うかもしれない。
そして、そうでない、と秋穂は否定しない。
裏表のないその性格は良くも悪くも相手を受け入れようとする。尤も、事には限度というものがあるが……。
ともあれそんな彼女には、この光景は羨ましいものだった。
鈴が一夏に恋をしている。というのも一つだろう。
理由はどうあれ『好きな人と全力でぶつかる』という、未だ秋穂のしたことのない行為を簡単にやってのける二人が――羨ましかったのだ。
(いいなぁー。私も弾さ……っといけない。しっかり見てなくちゃ)
集中して試合を見る。前回は迷ったためにピットでの観戦だったが、今回は違う。箒とセシリアは『人混みはいい』と言って観客席には来なかった。
だから、というわけではないが、話を止め余計なことを頭の中から消していく。
試合開始のブザーが鳴り響く。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「織斑くん、調子は良さそうでしたか?」
「あぁ。……山田先生。その顔はなんだ?」
「いえ。あまり言葉も交わしていないのに、やっぱり分かるもんなんですね。織斑先生、流石ですね。織斑くんの姉……痛い!! 痛いです!! お、織斑先生!?」
口は災いの元。真耶の言葉と表情は千冬を刺激するのに十分すぎるものだった。
「前にも言ったはずだ。私はからかわれるのが嫌いだと」
「そ、それは知ってます!! でもこれはからかったわけではなく――」
「ほう、言い訳をするか。なら、こちらにも考えがある」
千冬の無表情は変わらないが、真耶の頭を絞めている腕の力は徐々に、などという表現の方が嬉しく感じるほど一気に上がっていく。
眼鏡の向こうで涙目になっている真耶の顔は残念ながら千冬からは見えない。と言うよりそもそも見ていない。
千冬の視線の先は一夏と鈴の試合に固定されている。
腕は解除されていない。
「すみませんでした!! 私が悪かったです!! からかってました!!」
「罪を認めたか。……だが、許しはしない」
「お、織斑……先生……」
周りに生徒がいる状態でも、ぶれることのない教師陣だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ぐっ――」
アリーナでの一夏と鈴の試合は前回のセシリア戦と同様、否、それ以上の激しさになっていた。
鈴の専用機『|甲龍』。
砲身も砲弾も見えない衝撃砲『龍咆』は直線にしか撃てないものの、確実に一夏を追い詰めていた。
というのも。
――空間の圧縮を確認――。
「甘いわっ!!」
「ぐあっ!!」
ISの処理能力は優秀だ。大気の流れ、空間の歪みなどであっても数値を出し、操縦者はそれを知ることができる。
ハイパーセンサーでは数百メートルの位置にあるものであろうとはっきりと見ることができる。
速度も人間のそれを遥かに上回り、IS以外でISに勝てるものはない。
しかし。
例えば『打鉄』というISがある。
日本が量産している防御重視型のISだ。専用機を持っていないほとんどの生徒はそれを操縦し、実力をつけていく。
そこで試合をすれば当然ながら勝者と敗者がいる。
ほとんど同じ、というだけで確かにここによって多少の違いはあるだろう。だが、その機体の差など微々たるものだ。
ではなぜ同じ機体を使っているのに勝敗がつくのか。
簡単だ。
「まだ――終わりじゃないわよ!!」
操縦者の実力の差である。
いくらISが宇宙での活動を前提に作られたために丈夫で、処理能力に優れ、世界最強の兵器だったとしても。
『操縦者がいなければISは動かない』
入学したばかりの一夏でも知っていることだ。
それゆえに、操縦者の実力によってISはそのパフォーマンスを何倍にも引き上げることができる。
(くそっ……)
一夏は心の中で悪態をつく。
見ることのできない『龍咆』を躱すためにISのハイパーセンスを使用している。が、それでは遅すぎる。
空間が圧縮され、大気の流れが乱れる。それをISが感知した時には既に放たれた後であり、撃たれてから分かっているのに等しかった。
だが、それで終わりではない。それで終わりであるならば、まだ戦いようはいくらでもある。
しかし『龍咆』はあくまでも牽制でしかなかった。本命は大きすぎる青龍刀と拳なのだ。
パワータイプ。
その一言で終わらせてしまうにはあまりにも強大で、圧倒的な力だった。
『零落白夜』
全IS中でもトップクラスの攻撃力。シールドエネルギー無効化攻撃を持っている一夏だが、その攻撃も当たらなければ意味がない。
失っていた剣道の感覚は戻りつつある。明らかにセシリア戦よりも一夏は強くなっている。
それは事実ではある。
しかし、その刃が鈴に届くかどうかというのはまた別の問題だ。
いくら感覚が戻ろうと、届かないものは届かない。
武器の性能ではなく、操縦者の実力がものを言う。
(気持ちで負けない……か)
『雪片弐型』を構え直す。鈴が強いことは分かっていた。自分の刃が届かないことは今に始まったことではない。
セシリアの時もそうだった。
それでもあそこまでやれた。結果として負けてしまったが、得たものは確かにあった。
「鈴。本気でいくからな」
「な、なによ……そんなこと、当たり前じゃない……。とっ、とにかくっ、格の違いってのを見せてあげるわよ!!」
距離を考え、タイミングを見定める。
奇襲は一度しか効かないからこその奇襲だ。その一撃を何としてでも届かせる必要がある。
白式のスペックは他のISと比べても決して低いものではない。どころか、高い部分は数多くある。
生かすも殺すも一夏次第だ。
「うおぉぉぉ!!」
「一夏君、上!!」
ISのハイパーセンサーのおかげだろうか。知った声が届いた気がした。その声に反応しようとして、一夏の動きが止まってしまう。
見るよりも先に、ISの感知よりも先に、その声が届いたことによって未来は大きく変わる。
その直後、アリーナ全体を爆発音が包んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
爆発音の直後、遮断シールドを貫通した『それ』のせいでアリーナ全体に凄い衝撃が走った。
避難することもできない生徒に混じって、私もその場で足止めを受けていた。
「春日さん、大丈夫? 顔色が悪いけど……。どこか打った?」
「私は大丈夫だよ。私は……」
戦っている一夏君と鈴ちゃんを前に私は何も出来ずただ見ているだけ。
私は専用機を持っていない。ISを持っていないのだから当然だ。
私の中でそうやって言い聞かせている私がいる。
『行って何になる?』
『専用機も持っていないのに』
『戦いの邪魔になるだけだよ』
『邪魔にならないことで、役に立ってるんだよ』
『もうすぐ先生達が助けてくれる』
『怖い』
『なら、他の人に任せよう』
『何とかしてくれる』
『だから』
『逃げることは当たり前なんだ』
『零落白夜』について聞いたのはほんの少し前。出来ることがなかったから、私に出来たことは稽古の後の差し入れぐらいだった。
だから、一夏君がどれくらい強いのか。それを私は見た感じでしか知らない。
それでも分かる事はある。
例えば。
『この相手はおかしい』ということ。
灰色の機体でも、長い手足でも、初めて見る全身装甲でもない。
何が、って聞かれて答えられるものじゃないけど。でも、普通じゃないって思う。
IS学園に攻撃を仕掛けてる時点で十分普通じゃないんだけど……。
「聞いた? 今どこかからハッキング受けてシステムが動かないんだって」
「じゃあ先生達が出てこないのもそのせいなの? ここも危ないんじゃ……」
「なんでも三年生の先輩が頑張ってくれてるって聞いたけど」
「あのIS、どこの国のなの? ここを攻撃する意味が分からないんだけど」
「自分の立場を悪くするだけよね」
周りの声が私の耳に入ってくる。
それがどんなに聞きたくない言葉でも、これだけ密集してたら嫌でも入ってくる。
でも、今に限っては『嫌だ』なんて言ってられなかった。
「……一夏君、鈴ちゃん……」
ハッチが開かない事には先生達は出れない。
こうしている間にも、一夏君達は戦ってるのに……。
「だ、大丈夫よ。織斑先生だっているんだし……」
周りからも不安を帯びた声が届いてくる。当たり前だ。私たちは戦い方を学んではいるけど、実際に戦うことなんてほとんどない。
ISはすごく危険な兵器だけど。
その気になれば世界を滅ぼせるんだろうけど。
そんなこと私たちは、私は、考えたことなんてないから。
『敵対心』を向けられることはあっても、『殺意』を向けられることなんてないから。
「織斑君がっ!!」
ボーッとしていた顔をアリーナに戻す。
鈴ちゃんと二人で戦っている一夏君だけど、その表情はやっぱり苦しそう。
二人とも頑張ってる。けど、頑張っても頑張っても、報われない時はある。一夏君が頑張っていた事を私は知ってる。だから余計にそう思う。
でも、それでも……。
「――っ!?」
足が震える。思っただけで、考えただけで、実行に移す前からこんな状況で、役に立つはずがない。
だって私は専用機を持ってない。一夏君を助けることなんて、出来ない。
今行ったら一夏君は私を守ろうとしちゃう。皆を守ってるのにその上で、だ。
そんなこと普通な考えたら無茶だ。どうしてこっちに攻撃してこないのかは分からないけど、こっちに意識が向いていないのは有り難かった。
私にできることなんてないし、邪魔になるくらいならいっそここで――。
「一夏!!」
アリーナ全体に響く声。その声は強く、呼ばれているのは私じゃないのに激しく心を揺さぶってくる。
だってその声は――。
「男なら――」
その声は、『専用機を持ってない』箒ちゃんの声だったから。
きっと何かをしたいんだ。そう思う。
たぶん、セシリアちゃんも動いてる。二人を助けるために。
一緒に戦うために。
「っ……」
怖い。
最初の一歩が出ない。
『私にできることなんてない』
『邪魔なだけだ』
『怪我をする』
『痛いのは嫌だ』
『ここにいれば安全だ』
『あの人達に任せればいい』
『もうすぐ助けが来る』
『わざわざ危険に首を突っ込む必要はない』
色々な言葉が私の足を鎖で繋ぐ。重りになって絡み付く。
私がこうしている間にも、一夏君達は戦っている。
皆を守るために。
先生からの命令も無視して。
「――っ!!」
歯を食い縛る。
「……を……いて」
「ど、どうしたの、春日さん!?」
「私を思いっきり叩いて」
情けない。他の人に頼まなきゃ動けないなんて、本当に情けない。
戦ってるのは友達なのに。助けにいくのに、他人の後押しがいるなんて。
でも……。
「本当にどうしたの? やっぱりどこか――」
「ごめんね。時間がないの。……思いっきりお願い」
「……いいの?」
「うん。ごめんね、こんな事お願いして」
――パァン!!
乾いた音は騒然とした観客席にはよく響いた。周りがざわついているのが分かる。こんな状況で喧嘩を始めたのかと思われたかもしれない。
同じクラスってだけでこんな事を頼んじゃうなんて……。もしあの子が非難されたら私のせいだ。
でも、今はごめんね。謝るよりも先にしないといけないことがある。
だから。
「ありがとう」
「えっ!? ちょっと、春日さん!? どこにいくの!!」
笑顔を最後に見せちゃったのは、なんだか今から死にに行くみたいな感じになっちゃったな。なんて、何考えてるんだろう。
今からは遊びじゃない。下手をすればそれこそ私の命なんてすぐに消えちゃう世界だ。
何も出来ない、なんて考えない。
何か出来ることはあるはずだし、なければ作ればいいんだ。
足の震えは止まっていない。さっきよりはましになったけど、それでも心は恐怖でいっぱいだ。
血が出た。なんて言って泣くことは許されないし、弱音の一つも言っちゃ駄目だ。
でも。それでも。私は行く。足を前に動かす。
気付いたから……ううん、本当はずっと分かってたはずの事。
何が一番怖いのか。
「一夏君、左!! まだ終わってない!!」
叫んだ直後、一夏君が衝撃砲の光に包まれる。
飛び込んでいったその背中はとっても格好良くて。
力になれたかどうかなんて分からないけど、それでも一緒に戦いたいって思った。
私にとっての恐怖が分かったから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
窓から入る夕日が部屋を赤く染めている。
保健室のベッドに横たわっているのは一夏だ。カーテンで仕切られているためにその強い光は直接は入ってこない。
が、カーテン越しに見える赤さは夕日の輝きを物語っていた。
「…………」
規則的に上下する胸と呼吸を聞いている限り、一夏が起きそうな気配はせず、寝返りさえうちそうにない。
「……ふぅ、落ち着かないと……」
見下ろしているのはツインテールを揺らす少女。一夏の寝顔を見つめ、何度も深呼吸を繰り返して高揚する気分を落ち着ける。
「……大丈夫よね?」
カーテンから顔を出しキョロキョロと辺りを確認。誰もいないことに安堵しつつ、胸に手を当てて呼吸を整える。
再び深呼吸をするが時間もないことに気付き行動を開始する。
(……よしっ!!)
心を決めてベッドに近づいていく。彼女の身長が低いこともありベッドに片足を乗せて顔を近づけていく。
「んっ……」
「――っ!?」
垂れ下がった髪が一夏の顔にかかる。擦れてむず痒さを感じたのか、一夏の口から声が漏れる。が、余程熟睡しているのか、一向に起きる気配はない。
その一挙に激しく動揺し、思わずベッドから離れる。
両手を口に当て、叫びそうになる心を必死に落ち着ける。時間にして数十秒。たったそれだけの時間だが、少女には無限の時間にも思える。
「……よしっ……」
再び行動を起こす。鍛えられた動きで素早く近付き、一夏の顔を覗き込む。
大した障害にならなかったのか、一夏の寝息はその規則性を一切乱していない。
同じ過ちを犯さないために自身の髪の毛に気を付けながら顔を近づけていく。
目に入るのは唇だ。それを許すと言う行為が何を意味するのか、それが分からない少女ではない。
『お前の背中は俺が守る』
激しい戦いで傷付きもした。だが、一夏のかけてくれたその言葉は何よりも嬉しく、恥ずかしさはあったものの少女に力を与えてくれたのは確かだ。
目を閉じる。
空気からすぐそばまで近付いていることが分かる。
迷っていては止めてしまいそうになる。何も考えず、一気にその距離を詰めようとして。
その横顔に明るい光が当たっていることに気がついた。
「じー。あっ、いいよっ!! 続けて続けて。夕日をバックに唇を合わせる男女。寝ている少年の唇を奪う美少女……」
「なっ……なんで……どこから……」
「シチュエーションは何でもいいんだけど。すっごい絵になってたから」
パクパクしている少女――鈴に向けて笑顔で話す秋穂。
しかしその笑顔は鈴の行為に対する牽制の笑顔ではなく、どこか悲しみを匂わせるような苦笑いだった。
「鈴ちゃん」
「な、なによ……」
身構える鈴に向けての秋穂の言葉は、しかし彼女の想像とは全く違うものだった。
「ごめんね」
「……えっ?」
「それだけが言いたかったんだ。邪魔しちゃったね。じゃあ続きをどうぞ!!」
「ちょっと、待ちなさいよ!!」
「また明日ねー」
鈴の言葉を聞いているだろうが、秋穂は止まることなかった。保健室の扉を静かに開け、素早くその場を後にする。
その一連の流れに何も言えず、それ以上追いかけることも出来ず、ただ呆然と立ち尽くす。
「一体なんなのよ……」
「んっ……鈴?」
保健室から騒ぎ声が聞こえたのは、それからしばらくしての事だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
春の夜は涼しい、とは言いがたい気温だ。
冬から季節は移っているとはいえ、その風はまだ冷たく少女の肌を突き刺していく。
風に吹かれ、屋上から外を見ているのは秋穂だった。
右側だけの三つ編みを手で絡ませ、口から出るのは言葉ではなく溜め息だった。
――ガチャ。
後ろから聞こえてくる音に振り返ることはしない。
こんな時間にこの場所に来る者など、この学園においては限られている。
「……強さって何ですか?」
「…………」
後ろから言葉は返ってこない。だが、答えてもらうことを求めていないのか、秋穂の言葉は止まらない。
ただ話しているように。自分に言っているかのように。
「今日、すごく怖かったんです。『敵』なんて今まで会ったことありませんでしたし、ああいうのを目の当たりにする事も初めてだったから……」
「…………」
「私、逃げようとしたんです。戦ってる友達がいるのに。守ろうとしてくれている友達がいるのに。私……」
「……春日」
「情けないですよね。隣の人に叩いてもらわないと足が動かなかったんです。動いてからも、震えっぱなしだったんです。だから――」
振り返り、秋穂は問う。風に髪を靡かせ、乱れる髪を押さえることもせずに。
「教えてください。織斑先生」
「自分で考えろ。分からないなら悩めばいい。悩んで、それでも分からないなら、そこがお前の限界だ」
いつものように、否、いつも以上に厳しい千冬の言葉に安心している自分がいることに気づく。
スッキリした、とは言えないものの、秋穂の表情はその言葉だけで和らいでいく。
一礼した彼女は軽い足取りで千冬の横を通りすぎようとして――。
「ちょっと待て」
――一枚の紙を突きつけられた。
「……えっと?」
「消灯時間を過ぎての屋上外出。明日の放課後までに反省文を提出しろ」
「…………」
「返事はどうした? 聞こえなかったのか?」
「いや、先生。今のいい空気は一体――」
「教師権限でもっと厳しい罰にしてもいいんだぞ?」
「ありがとうございます。反省文、書きたかったんですよねー」
「ならいい」
さらに懐から紙を数枚取りだし、秋穂に向けて放った。
口元を上げた含みのある笑顔で。
「喜べ、ちょうど持ち合わせの紙があった。合計五枚、明日の放課後までに提出だ。遅れたら、分かっているな?」
「ははっ……お休みなさーい」
ひくついた頬を固定したまま秋穂はその場を後にする。ドアを挟んだ向こう側から「うわぁーん!!」という泣き声が去っていった気もするが、千冬は動かなかった。
「……ふぅ」
滅多に見せない表情は、誰もいないからこそ出せるものだった。
他の教師や生徒にはもちろん、弟である一夏には決して見せることの出来ない弱さ。
座り込み、体を休めることはしない。が、その表情は暗いものだ。
「……あの馬鹿が」
呟いた言葉に込められた意味を誰も知らない。周りに見せない強さということが彼女の強さの一つでもあるのだ。
五分。表情が戻った千冬はいつもと変わらない歩調で屋上から姿を消す。
風は吹かれる者がいなくなったのを見計らったかのように、ピタリと止むのだった。
翌日。
『ごめんなさい。すみません。申し訳ありません。反省しています。もう二度としません』の五単語のみで構成された五枚の反省文、もといゴミを提出した秋穂はその数を倍に増やされた挙げ句、出席簿ではなく電話帳と見間違える辞書をその頭に降り下ろされたのだった。