憎らしいほど晴れ渡った青い空に男の子は苦々しく思いながら窓から視線を外した。
とうとう来てしまった旅立ちの日。
男の子は結局、回避できる良い案が浮かばず、この日を迎えてしまった。
旅を辞めたい。そのただ一言が言えれば、すぐに男の子の不安は消えるのだが、そんな事をすればストーリーが根本的に狂ってしまうので出来はしない。
だからと言ってトウヤではない男の子が旅に出てもストーリーは変わるだろう。
八方塞、四面楚歌と言う言葉が男の子の脳裏をよぎった。
それほど男の子は追い詰められていた。
男の子は深い溜息を吐いた。
何故なら、旅立ちの日だという事だけが男の子を悩ませている訳では無いのだ。
男の子は目の前のテーブルを見る。
そこには目玉焼きとサラダにトーストとトマトスープが置かれていた。
ただの今日の朝食メニューなのだが“作った人”が問題なのである。
ピカチュウはそんな男の子に不思議そうな顔をしながら自分のポケモンフーズを美味しそうに食べている。
そんな相棒の姿を恨めしく思うが、彼には何の罪も無いのですぐにその思いを消した。
対面式のキッチンで鼻歌を歌いながら、朝食を作った人であるその人は男の子に話しかけた。
「トウヤ〜。ご飯が冷めてしまうから、ママを待たずに先に食べていいわよ」
そう言ったトウヤの母親に男の子は、言われなくとも先に食べるよ。
と思ったが口には出さなかった。
そう、昨日の夕方にトウヤの母親が帰ってきたのだ。
トウヤの母親は急な主張で出かけて旅立ちの日に帰ってくる筈が、予定より一日早く帰ってこれたらしい。
お土産の「フエンせんべい」を見る限りホウエン地方に行っていたようだ。
よりにもよって一番気づかれそうなトウヤの母親がこんなに早く帰ってくるとは男の子も計算外だった。
未だに気づかれてはいないが、家の中でも油断できない状況に男の子は神経が磨り減る思いだった。
そんな男の子の気も知らず、―――いや、知らなくって万々歳なのだが―――機嫌の良さそうなトウヤの母親の鼻歌を聞き流しながら男の子はまた深い溜息を吐いた。
でもまあ、落ち込んでても仕方ないか。
そう思い直した男の子は、気を取り直してピカチュウを見た。
ピカチュウは男の子の視線に気づいたのか男の子を見上げる。ピカチュウの空を切り取ったようなスカイブルーの瞳の中に男の子の姿が映る。
その事を嬉しく思いながら男の子は微笑んで言った。
「今日も宜しくな。ユズ」
ピカチュウ―――ユズはこちらこそ。と言うように元気よく返事をするように鳴いた。
?.一歩
男の子は朝食を食べた後、荷物の確認をし始めた。
昨日、買ったタウンマップとポケモンの傷薬×3が入っている事を確認し、他の道具は不備無くあるか慣れた動作で確認していく。
男の子が確認している間、ユズは男の子の隣に座り、確認と準備が出来るまで大人しく待っている。
そんな一人と一匹の様子を対面キッチンから見ていたトウヤの母親は微笑ましく思っていた。
男の子はそんなトウヤの母親の視線を感じたのか顔をあげ、トウヤの母親に問いかけた。
「如何したの?母さん。そんなに見て」
「チョットね、思い出していたの。ママが初めて旅に出た日の事」
そう言ってどこか懐かしむような顔をしたトウヤの母親に男の子は内心でチェレンではないが、メンドーな事が起こりそうだな。と思った。
トウヤの母親は語り出した。
自分の旅立った日は今日のように晴れ渡った日の事で、いろんな思いを抱えながら旅立った事、思い描いていた旅の理想とはかけ離れて辛かった事、夢破れてしまった事、等々。様々な事を話してくれた。
その話を聞いて男の子は想像してたのよりも旅は過酷で現実じみている。と知った。
だがよく考えてみればそれは当たり前の事なのだ。
何故なら男の子にとって、此処は現実世界ではなくゲームのポケモンの世界だから何処か心の奥底で所詮はゲームだ。と思っていたのだ。
だが、此処にいる以上、男の子の現実はこのポケモン世界にあるのだから現実じみているのは当たり前だ。
男の子はこの世界にいると言う意識が根本的に間違っていたのかもしれない。と思った。
しかし、このポケモン世界が男の子の現実世界とは似ている所もあるにはあるのだが根本的に違うので意識的にそう思っていても仕方のない事なのだ。
男の子はトウヤの母親を見た。
トウヤの母親は相変わらず、旅での出来事を懐かしみ、嬉しそうに語っている。
自分がトウヤではないだけではなく、違う世界から来たのだと知ったらこの人はどう思うだろうか。そんな考えが頭の中に浮かんだ。
だが、男の子はすぐにその考えを消した。
この世界にいる限り男の子は自分がトウヤではない事と、この世界の人間ではない事を誰かに話す気は全くない。
その行動だけでストーリーは根本的に変わってしまうと分かっていたし、何より人に頼るという事を男の子は良しとしなかったのだ。
それは、男の子は誰かに頼るという事と、誰かに甘えるという事を知らずに育ったことが原因なのだがこの時の男の子はそんな事を自覚していなかった。
「ねえ、トウヤ。あなたは本当に旅に出たい?」
「・・・・・?母さん、何言ってるだよ。そんなの当り前じゃないか」
男の子はトウヤの母親のその質問に何時の間にか思考の海に沈んでいた意識を取り戻すと同時に、何故、トウヤの母親がそんな事を言い出すのか分からなかった。
なにより、何時の間にかトウヤの母親の表情がどこか真剣気味になっていたので、益々分からなかった。
トウヤの母親は男の子の返事に何処か思う事があったのか、口を開こうとした時、玄関のベルが鳴る音がした。
男の子は慌てて、左腕につけてあるライブキャスターの時計機能で時間を確認した。
時刻は7時12分。
約束の時間である7時30分にはまだなっていないが、随分と話し込んでいたらしい。
恐らくだが、玄関のベルを鳴らしたのはチェレンなのだろう。と男の子は思った。
いつも遅れてくるベルを迎えに行くためか、遅れてくる連絡を受けて待ち合わせ場所に行く途中で男の子連絡しよう。と思って迎えに来たかのどちらかだろうとも思った。
どちらにしろ、早く出なければいけない。
男の子は荷物の確認が済んだ肩掛け鞄を持って立ち上がった。
それを見たピカチュウは男の子の肩に慣れた動作で飛び乗る。
男の子はトウヤの母親に、行ってきます。と言った。
トウヤの母親はニッコリと笑って、行ってらしゃい、トウヤ。という返事を背中に受けながら、玄関へ向かった。
だからこそ、男の子は気付かなかった。
トウヤの母親が何かを悩む様に複雑な顔をしていた事と、小さな声で呟いた言葉に。
だが、耳の良いユズにはその言葉が聞こえ、自分自身の耳を初めて疑った。
ユズの耳に届いたトウヤの母親が呟いた言葉は確かに「行ってらしゃい、名前も知らないトウヤ」と言っていた。
玄関に出てみると、男の子の予想通り其処にいたのはチェレンだった。
だが、意外だったのはベルもいた事だ。
男の子は思わず、今日は槍が降ってくるんじゃないか。と言ってしまい、ベルに怒られた。
私だって、早起き出来るもん!と言ってチェレンと男の子の前を歩くベルを呆れたように見ていたチェレンが言うにはベルが家に迎えに来て、トウヤも迎えに行こう。と誘われたらしい。
その際にチェレンも男の子と似たような言葉を言ったらしく、幼馴染二人にそう思われていた事が嫌だったらしい。
自分の行いを振り返ってみろ、そう言われてしまうのは当たり前だ。と男の子は思ったがベルには言わなかった。
チェレンと男の子がベルの機嫌を何とか元に戻した時には本来の待ち合わせ場所であるアララギ博士の研究所についていた。
旅立ちの日である今日、アララギ博士からトレーナーカードとポケモン図鑑を貰う事になっているのだ。
ゲームとは違い、ポケモントレーナーになり、旅をするためには近くにあるポケモン研究所にポケモントレーナー申請をする事が必要なのだ。
その申請をして許可を貰い、トレーナーカードとポケモン図鑑を貰って初めてポケモントレーナーになるのだ。
しかし、ポケモントレーナー申請は規定がある。
例えば、十三歳以上の者である事。これはイッシュ地方の義務教育が終わる年齢で、義務教育の中に旅で如何いう事が命取りになるか、もしもの時のためのサバイバル技術を身に着ける訓練があり、それらの資格が取れない限り旅に出る事は出来ない。と言うものだ。
男の子は現実世界に無い義務教育に初めて知った時は顔が引きつった。
確かにポケモンがいるとは言え、一人旅には違いないのだらその規定と義務教育はあって当然なのだろう。
だが、男の子が一番顔を引き攣らせた理由はトウヤの成績だ。
サバイバル技術の資格、植物が危険かどうか見分ける資格、ロッククライミングの資格、等々規定資格の物からそうで無い物まで片っ端から取得していた。
しかも、サバイバル技術の資格では歴代最高得点を記録しており、新人トレーナーになるであろうと思われる数多くの同年代の中で少し話題になっているらしい。
何やってくれてんだ!トウヤ!!
男の子は心底そう思った。
そして、男の子が旅立ちの日まで勉強を徹底的にしていたのは言うまでもない。
「トウヤ、早く入らないのかい?」
男の子はチェレンに返事をして研究所の中に入る。
受付の近くにはすでにアララギ博士が待ち受けていた。
何時もの白衣を身にまとい、にこにこと笑うアララギ博士に一種の安堵感を男の子は思った。
何故かはわからないが。
「ハーイ!ヤングガールにヤングボーイ。私の名前は・・・・」
「アララギ博士、自己紹介しなくってもぼく達はあなたの事を知っているのですが」
チェレンは呆れたような、何処かめんどくさげな顔をしながらアララギ博士に言った。
そのチェレンにアララギ博士は言い返す。
そのやり取りを見て男の子は安堵した。
此処にいるのがトウヤではなく男の子であってもストーリー上で変わらない所もあるのだと気づけたし、確認が出来たからだ。
大丈夫。まだ何とかなる。
男の子はそう自分に言い聞かせた。
「では、貴方達にトレーナーカードとポケモン図鑑を渡します」
そう言ってアララギ博士は男の子、チェレン、ベルの順番でそれぞれのトレーナーカードとポケモン図鑑を渡してくれた。
アララギ博士にお礼を言って受け取った男の子はトレーナーカードを上着の内ポケットに入れ、ポケモン図鑑をズボンのポケットの中に入れた。
これから始まる旅が楽しみじゃないと言えば嘘になるが、男の子は心底楽しめる事は出来なかった。
それはトウヤが楽しむはずだった旅を男の子が奪ってしまっている罪悪感があるのも原因だが、一番はやはりストーリーを歪めてしまう事だ。
元々この世界が辿るはずだった道筋を自分自身が邪魔している。そう感じていい思いはしなかった。
男の子がここにいて回避できる事は沢山あるだろう。
だが、それと同時に男の子がいたからこそ、ストーリーを変えてしまったからこそ、もっと悪い方向に向く事だってあるのだ。
自身の我儘で、そんな事になるのは男の子は望まない。
だからこそ、早急に元の世界に帰る必要がある。
だが、その方法が分からないため、男の子には如何することも出来ない。それでも、元の現実世界に戻る事は絶対に諦めない。
「それじゃあ、行ってらしゃいね」
アララギ博士のその言葉に返事をして、男の子達は研究所を出ようとした時、アララギ博士がトウヤを呼んだ。
如何やら、トウヤにだけ話があるらしい。
また、ストーリーとは違う展開に男の子は嫌な予感を感じながら、ベルとチェレンに先に行くように言った。
ベルとチェレンは終わるまで待っているつもりだった様で、少し不満そうにしながらも先に一番道路に行ってくれた。
その事に男の子は感謝しつつ、アララギ博士に向き直る。
アララギ博士は先程までの何処か明るくハッチャケた顔ではなく真剣な顔で男の子を見ていた。
それは研究者としての顔だ。と男の子は思った。
だがアララギ博士が何故、男の子にそんな顔を向けるのかが分からず、内心で首を傾けた。
男の子が色々と考えている中、アララギ博士は男の子に話しかけた。
「ヤングボーイ、トウヤ。貴方は本当に旅に出たいの?」
「・・・・・・・・・え?」
男の子は内心だけではなく、本当に首を傾けた。
三日前のチェレンと言い、トウヤの母親と言い、アララギ博士と言い、何故、男の子はそんな質問をされるのか分からないからだ。
チェレンの場合は勘違いだったという事は分かっているのだが、トウヤの母親と目の前にいて現在進行形で質問しているアララギ博士の二人に関しては分からなかった。
男の子は確かに旅に出たい。と言う思いがあるのだが、ストーリーを変えてしまう。と言う思いで複雑な感情になっている。
そんな男の子の感情が現れていたのならそう言われるのにも納得がいくのだが、男の子にはどうにもそれが違うような気がしたのだ。
だが、何が違うのかと言われてても分からないので、どう言えばいいのか分からなかった。
男の子が返答に困っていると、アララギ博士が察したのか、まあ、答えられないのなら別にいいのよ。と言ってニコリと笑った。
男の子がその言葉に締まりのない返事をした後、でもね、とアララギ博士は言って、
「貴方は貴方らしく旅をしなさい。旅では色んな事を学べるし、成長する事が出来る。例えどんな理由があろうともね」
その言葉に男の子はアララギ博士の顔を凝視する。
そんな男の子の反応を見ても、アララギ博士は相変わらず笑っていた。
見透かしたようなその言動に男の子は冷汗をかくが、何も言ってこない事を見るとまだばれてはいない。と男の子は思った。
それでも、此処にいるのは居心地が悪い事には変わらず、男の子は分かりました。とアララギ博士に言って、ベルとチェレンに追いつくためだ。と言い訳にして研究所から逃げるように出た。
男の子は研究所から出たことに安堵したのと同時に、先ほどのアララギ博士の言葉を思い出していた。
最近、男の子はトウヤになり切ろうとして無茶をしているのは自覚していた。
元々トウヤと似た性格なのであまり苦労はしなかったが、それでも神経は常に張りつめていたように思える。
その上に、突然このポケモン世界に来てしまった事や、ストーリーを変えてしまっているという罪悪感等のせいで“自分自身のこれからの事”は考えていても、“自分自身のあり方”は考えていなかった事に気づいたのだ。
“自分自身のあり方”は“自分自身のこれからの事”を考えた時に必然的に“トウヤになる”事で決まっているので考えなくても良いのだが、ほんの少しだけ“トウヤになる”のではなく“男の子自身”でいても良いかもしれない。と男の子は思った。
ベルの声が聞こえたので、その方向に目を向けると大きく手を振るベルとそのベルの傍に静かにたたずむチェレンが一番道路のに出る道の前にいた。
それを見て男の子はストーリーにあった最初の一歩は皆で一緒に進んだ場面を思い出す。
前までの男の子は“トウヤになる”為に義務的にストーリーに合わせていたが、今の男の子は“ストーリー”のためではなく、“自分自身”がだからこそ、初めて友人だと言えるようなベルとチェレンと共に最初の一歩を踏み出したい。と思ったので、彼らがいる所に急ぐために走った。
男の子は確実に変わろうとしていた。
「もう!遅いよ、トウヤ!!」
「ごめん、ベル。これでも早く来たんだから許してくれ」
「ベル、許してあげなよ。アララギ博士との話が長かっただけなんだから」
チェレンはトウヤに甘い!!ベルはそう言って頬を膨らませて怒っているが、チェレンは気にせずに男の子に説明を始める。
やはりと言うべきか、男の子の予想していた通りストーリーのイベントであるトウヤ、チェレン、ベルが一番道路に踏み出す最初の一歩は皆で行こうという話になったらしく、男の子は二つ返事で了承した。
その返事を待ってましたと言わんばかりに花が咲いた様な笑顔をしたベルは男の子を引っ張ってベルが引いたんであろう線の前に立たされた。
その変わり身の早さに後からきたチェレンがやれやれと言う顔をしながら、線の前に立つ。
「いくよ!!せ〜の!」
ベルの掛け声に合わせて男の子はこれから旅先で起こるであろうストーリーの展開を思ったが、つい数十分前まで思っていた罪悪感等が少し軽くなっていた。
それはきっと、アララギ博士の言葉が原因なのかも知れない。
何故ならその言葉のおかげで男の子は自分らしくあれればいい。と気が付けたのだから。
男の子はそう思いながら一番道路に一歩を踏みたした。
その一歩がこれからの旅の中で大きな一歩となるのをこの時の男の子はまだ知らない。