小説『みん』
作者:喰原望()

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「よう、中村」
 僕の肩に手をかける誰か。振り返るとそこには中村祐樹が立っていた。
「ああ、中村くん」
 そう返し、さりげなく彼の手を払いのける。すると彼はその手を今度は僕の頭の上に置いた。大人が子供にするみたいに。大人が子供にするみたいに。
「なんか、暗い顔してるな。そんな時はなっきーの歌を聞けばいいんだぜ」
 なっきーというのは全国に名前が轟いているスーパーアイドル、中村ようこのことである。彼女は僕らと同じ十八歳で、同年代の男たちの愛を全て受けていると言っても過言ではない。僕や、中村くんもその例には漏れない。
「暗い顔なんてしていないさ。これが僕の真顔だよ」
「そうだっけ? 中村って影薄いから忘れてたな」
 はははと笑う彼に僕は怒りを覚えた。将来、従業員に過剰な労働を強いて法的に罰せられればいいのに。僕はそんな下種なことを考えた。
 そして口に出していた。
「将来、従業員に過剰な労働を強いて法的に罰せられればいいのに」
「ん? 誰の話だ?」
 鈍感な彼は気付かない。僕が心の底からの憎しみを込めて、吐き捨てた言葉を、彼はゆらりとかわして見せた。なんという。
 ともかく。
 こうなったからには僕は彼に殴りかからなければならない。言葉で説き伏せることが出来ないのであれば、暴力で訴えるのは当然の帰結である。故に、僕はどんな良心が咎めようとも、彼の鼻っ柱の一本や二本、三本、四本、へし折ってやらないと。
 いけない。
 おおっと。忘れていた。彼は、僕よりも強いのだった。殴れば、即座に殴り返されるのは想像に難くない。痛いのは嫌いだ。自ら苦痛を受けに行くのは被虐嗜好の人間のすることで、僕のすることではない。僕のすることと言えば、彼に対して媚びへつらうことである。
「げへへ、マッチが三本、千二百円だよ」
「じゃあな」
 彼は去っていった。あろうことか僕の必殺技を無視してまで彼は果たさなければならない用事があったようだ。きっと妹の結婚式に違いない。
 彼の妹の名前は中村へじき。別名、ひじきのへじきである。

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