第三話 「私は、ここにいる」
「――人生なんて、風船と一緒よね……」
先日、数年ぶりに再会した学生時代の友人は、手狭な居酒屋の喧騒の中でそう呟いた。
「空に舞い上がった風船ってね、ある程度の上昇をすると気圧の関係で破裂したり、ガスが抜けてしぼんじゃったりするんだって」
友人は吐き出した煙草の紫煙をぼんやりと眺めながら、「結局、どこにも行けないんだよ」と寂しそうに笑った。
今日も、朝が降ってくる。
簡素な朝食を済ませて、満員電車に押し込まれて、変わり映えのしない職場で機械のように業務をこなして、また満員電車に押し込まれて。
――暗闇に濡れた、ワンルームのアパートの重たい扉を開ける。
そしてコンビニで買った夕食を済ませて、お風呂に入って、ぼんやりとテレビを眺めながら、飼い猫のミミを撫でて。
――あとはベッドに潜り込むだけ。
昨日も、明日も、あさっても、その次の日だって。
私の時間は、永遠にループする傷ついたレコードのよう。
感情だけが、音も、痛みもなく剥がれ落ちていく。
そんなある日のことだった。
薄暗い部屋に帰った私は、いつものように夕食を済ませて、いつものようにお風呂に入った。
変わったことといえば、ミミが風邪をひいてしまったこと、お気に入りのピアスを失くしたこと、三年間つき合った彼と別れたこと、ただそれだけ。
素足に伝わる、お風呂場の床の感触がやけに冷たくて、シャンプーが切れていたことをすっかり忘れていて ――私は泣いた。
熱いシャワーを全開にしたまま、大声で泣いた。
お風呂から出た後、部屋の灯りもテレビもつけないままでベランダに出た。
乾いた風が火照った身体を心地よく舐める。
しばらく水をあげてなかったサボテンが、いつの間にか花をつけていた。
仄暗い夜空に、心もとない星が瞬いていた。
きっと、明日も朝が降ってくる。
それでも――私は思う。
それでも私は、この世界がどうしようもなく愛おしいんだと思う。
昨日だって、今日だって、きっと明日だって――。
そして、夜は静かに終わる。
慌ただしくハイヒールを履き、ミミの頭を撫でて、玄関の扉を開く。
「行ってきます」
色味を帯びた高い空を見上げて、眩しい朝日に目を細めた。
「今日は忘れずにシャンプー買わなきゃね……」
私は――私は、ここにいる。
了