「世界の平和のために、魔王! 貴様を倒す!」
またハンマーを振り上げた。
俺は悲鳴を上げて、避けた。壁にヒビが入る。
嘘だろ? こんなので殴られたら、本当に殺される。
パニックになった俺の手元に、何か当たった。それは最初に投げつけられた手斧だった。壁を殴られた衝撃で、突き刺さっていたのが落ちたのだろう。
「あ……」
また男がハンマーを振り上げた。
「わあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!」
絶叫していた。
考えることを放棄していた。
俺は、手元にあった手斧を掴んで、横薙(よこな)ぎに振るった。
両手に鈍い感触が伝わる。生暖かい液体が、俺の腕を、頭を、濡らした。
恐る恐る目を開けると、ハンマーを落とした男の首に、手斧の刃が深々と突き刺さっていた。
あ、あ、ああ、あああ………
お、俺……人を、殺し…………
「うぐっ……!?」
喉の奥から、せり上げてくる気配を感じて、俺は地面に手をついていた。男から流れてきた血と、俺の吐瀉物(としゃぶつ)が混ざるのを見ながら、これが最低の悪夢の類じゃないのだと、思い知らされた。
わけがわからない。
だって、ついさっきまで日常だったじゃないか。
『虚構(ネット)に現実(リアル)を持ち込むのは、ルール違反なんじゃない?』
留衣が言っていた台詞だ。
そうだ。虚構(ネット)に現実(リアル)を持ち込むなんて、馬鹿げている。それと同じで、現実(リアル)に虚構(ネット)を持ち込むのだって、馬鹿げている。
そう。馬鹿げているんだ。
こんなこと、おかしい。狂ってる。
また吐き気がこみ上げてきた。
だが、今度は吐かなかった。
異変が起きたからだ。俺の腕や頭を汚していた返り血が、淡く輝いたと思ったら、そのまま何も無かったかのように消えたのだ。
こちらまで広がってきていた血溜まりも同じように輝きだした。
俺の視線が、自然と男の死体へと向く。男の死体も、血と同じように淡く輝いて、そして、最初から何も存在しないかのように、消え去っていた。
俺の頭はパンク寸前になっていた。
何が起きたんだ?
混乱が混乱を呼んで、俺は呼吸まで忘れかけていた。
その時だ。
「おい、美鶴か? 何があったんだ?」
声をかけられて、ほとんど無意識で顔を上げた。
そこにいたのは、制服を着た高校生ぐらいの男だ。その顔を知っていた。
津軽(つがる)杏里(あんり)兄ちゃんだ。留衣の兄貴は驚いたように近付いてくる。
「大丈夫か? 立てるか?」
たぶん杏里兄ちゃんは、死体が消えるところを見てないはずだ。転がったハンマーとヒビの入った壁と地面、そして、俺の手には手斧。
状況なんて、わからないだろう。
俺は兄ちゃんに腕を掴まれて、無理やり立たされた。
「……兄ちゃん、留衣、家にいるか?」
「は?」
俺の質問に、兄ちゃんは目を丸くした。
「俺、まだ家に帰ってねえから、どうかわからないけど。ってーか、お前、大丈夫なのか?」