小説『Ark of the Covenant -lapis philosophorum- 』
作者:bard(Minstrelsy)

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 しかしながら、とリヴェット副主任が呟く。
「かなり昔の文字と推測されるのに、開発中の文字に当てはめられるとは」
 確かに、奇妙な話だ。
 過去にあったどの文字とも違う新造文字。共通項を抽出して汎用性を高めた結果がこの形だ、とプロジェクトのページで説明されていた。
 だが、「石版」もとい賢者の石は、恐らくは文字がまだ統一されていた頃からあるものだと推測されている。つい最近作られたばかりの新造文字とは、普通に考えて適合するはずがないのだ。
 万が一適合したとしても、意味の通る文章になる事は有り得ない。
 その前提が、今、目の前で崩れ去った。
「カノミさん」
 呆然としている俺に、副主任が話しかけてきた。
「この文章に、何か心当たりは?」
「いえ……全く」
「テイラーさんも?」
「わ、私にも心当たりはありません」
「ふむ。そうですか……」
 モニターに目を遣る。
 もう一人の私、とそれを記した誰かが呼びかけている。
 現段階でこの石版を見ているのは、アリシアだけだ。
 普通に考えれば、アリシアに関係する事柄だと思う。
 だが、彼女は統一言語開発プロジェクトとは全く縁がない。現に、この石版の文字も解読出来ていない。それに、プロジェクトの存在は知っていたとしても、文字がどんな形をしているかを知っている者は少ない。アリシアが知っていたならば、リヴェット副主任が気付く前に指摘していただろう。
 それならば何故、この文字で解読出来たのだろう。
「一応意味の通る文章になっていますが、これが正解とは限りません。本当は全く別の内容かもしれない。ですが私には、これが正解だとしか思えない。思い込みは良くないと解ってはいるのですが……」
 俺も同感だった。
「明日以降になりますが、あなた方のラボと私達のラボ、それと文字開発プロジェクトのメンバーを集めて協議を行う予定です」
「協議、ですか」
「はい。これの解読には、この三つのチームの連携が不可欠でしょう。これから通達文書を作ります」
気付けば、他の研究員も息を詰めてモニターを見上げていた。
 書かれている内容を理解出来る人間は、恐らくこの中には居ないだろう。それでも惹き付けられるのは、純粋な好奇心からか。
 これを見るはずの、もう一人の「私」。
 「私」が呼びかけているのは、いずれやって来る世界の危機。
 その「私」がアリシアならば、もう一人とは一体どういう事なのか。
 未だ解読出来ていない部分が解れば、その謎も解けるのだろうか。


 まだ別の作業があるというアリシアを残し、ラボを後にする。
 部屋へ帰る気にもなれず、研究所をふらふらと歩き回る。
 日の高い時間だというのに、まるで夢の中を彷徨っている様な気分だ。踏みしめているはずの地面が、酷く頼りない。今にも崩れ落ちてしまうのではないか、そんな気さえする。
 解読された文章を読んだ時に感じた嬉しさは、跡形もなく消え失せた。
 約束を果たせる、と喜んだはずなのに。
(約束? 何の?)
 果たすべき約束が何なのか、それすらも解らないというのに。
(懐かしい? あれが?)
 心当たりなんて何もない。
 今まで遅々として進まなかった研究が、ここに来て一気に進んでいる。こちらの理解を超える速度で、全てを押し流しそうな勢いで。
 廊下を進んだ先は、行き止まりだった。戻るしかない。壁に寄りかかり、溜息をつく。
 誰も居ない。静かだ。
 その静寂を、呼び出し音が破る。
「はい、カノミです」
『あ、ケイジ?』
 アリシアだった。
 声の調子はいつもと変わらない。
『今どこ?』
「どこだろうな。廊下の行き止まり」
『何やってんのよ』
「さあな」
『……何かあったの?』
「別に、何も。……で? そっちは何かあったのか?」
 変に追求されても答えられない。用件を聞く。
『ああ、えっと、リヴェットさんの言ってた協議の件。正式な通達は夕方になると思うけど、明後日になるんだってさ。私とケイジも参加だから、先に伝えとこうと思って』
「だろうな。当事者だもんな、俺達」
『そうね。でも、見てるってだけで、何か解ってる訳じゃないのに……』
「石すら見えない奴も居るんだ。そこはほら、義務だよ、義務」
 望んだ訳ではない義務。でも、義務なんてそんなものだろう。
『義務ねぇ。確かに、そうかも。……え……あ、はい、解りました。すぐ行きます』
「ん?」
『仕事。そっちはこれからどうするの?』
「居てもしょうがねぇし、今度こそ帰るかな」
『解った。夕飯までには帰れると思うけど』
「気にすんなって。そうだ、何か準備しておこうか?」
『よろしく。期待してるよ』
 それじゃ、と通話が切れる。
 とりあえずやる事が出来た。それだけでも、随分と心持ちが違う。
 少なくとも、研究所をうろつくよりはよっぽど良い。
 端末をポケットにしまい、来た道を引き返した。


「あ、お疲れ様」
 帰りがけ、同僚が俺を見付けて手を振っていた。
「もう帰るんだ?」
「もう、じゃねえよ。やっとだ。大体今日は休みだったんだぜ?」
「そうだっけ。何だかいつもラボに居るイメージがあるんだよね」
 愉快そうに笑う同僚。
 彼はまだ、あの石版の話を知らない。知ったとしても、受ける印象は俺とは全く違うだろう。
 同じ研究をしていても、共有出来ない感覚がある。感じ方は人それぞれだと言ってしまえばそれまでなのだが、それでも共有出来ない寂しさを感じる。
「逆にお前は始終サボってる気がするな」
「あ、かのみんってば酷ーい。そういう事言っちゃうんだ」
「かのみんって呼ぶな。じゃ、俺は帰るから」
「お疲れー」
 脳天気に笑う同僚が、少しだけ羨ましかった。

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