小説『Ark of the Covenant -lapis philosophorum- 』
作者:bard(Minstrelsy)

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【Report:2 PIPS】


 ユキノの帰る時間は前もって聞いてあった。ぴったりに行くのも何だか慌ただしい気がして、少し時間をおいてから顔を出す。
「こんにちは、お兄ちゃん」
 玄関から飛び出してきたユキノは、まだ学校の制服のままだった。後ろから母親が顔を出す。さすがに父親はまだ仕事中らしい。
 着替えていないのは、場所が場所だから制服のままで、という母親の判断だった。
「服装は特に規定などありませんので……着替えてからでも構いませんよ」
「いえ、あまりにも自由な格好というのも……」
 どう言っても譲りそうにない。
「では、そのように……。帰りもお送り致します」
「よろしくお願いします」
 良い子にするのよ、という母親の言葉に、満面の笑みで応えるユキノ。俺から見ても可愛らしい良い娘だと思う。
 いずれ自分にも子供が出来れば……などと考えてしまうのは、今朝の考え事のせいだろうか。


「何か好きな歌はあるかい?」
 今朝方ダウンロードした曲をかけながら、ユキノに話しかける。
「うーん……。よく解らない」
 慣れない施設へ向かう不安からか、ユキノは大人しい。大丈夫だとは思うが、怯えて泣かれると困ったことになる。万が一無関係な人間に見られでもしたら「安全かつ理解を得た上での協力」という説明の説得力が無くなってしまう。
 記録のためにボイスレコーダーを起動させる。下手な事を言わなければ、俺の無実くらいは証明してくれるだろう。
(参ったな……)
 気まずい沈黙の中を、場違いなくらいに明るい流行歌が掻き乱していく。ユキノは聞いているのかいないのか、ぼんやりと窓の外を見たままだ。
 必死で話題を探すが、仕事柄子供との接点は少ない。どんな話をすれば良いのか、皆目見当もつかない。やはり、アリシアに話を聞いておくべきだった。
「ねぇ」
 その沈黙を、ユキノが破る。
「ん?」
「あたしと同じ箱を見た人って、誰なの?」
 予想外の質問に息を飲む。
 両親に話をした時に、やはりユキノはドアの向こうで聞いていたのだろうか。或いは、俺が帰った後に両親から話を聞いたか。いずれにせよ、この件に関しては口止めをしていなかった。
 迂闊だった。
 自分と同じものを見た人が居ると聞けば、興味を持つのは当たり前だ。そう、俺と同じ様に。
「ごめんね。これは教えられないんだ。教えちゃいけないって言われているんだよ」
「……そうなんだ」
 残念そうな声。子供の事だ。これで素直に引き下がるとは思えない。
「ねぇ。その人ってさ」
 やはり諦めていなかった。
 何度聞かれても言えないのだ。
「お兄ちゃん、でしょ?」
 横目でユキノを伺う。
 妙に自信に満ちた瞳。だが、子供特有の雰囲気は全く無い。
 何でも見透かしている様な瞳。空恐ろしさを覚える程に冷たい。
「……まさか。そうじゃないよ」
 彼女の瞳に気圧されて、そう答えるのがやっとだった。
 無論、ユキノがその答えで納得する訳がなかった。容赦なく追求してくる。
「嘘。あたしには解るもん。お兄ちゃんも箱、見えてるんでしょ?」
「いいや。残念だけど、俺には何も見えていないんだ」
「駄目だよ、ホントの事言わないと。嘘ついちゃいけないんだよ」
 子供とは思えぬ程に厳しい声。刺すように抉るように責め続ける。
 背中を一筋、冷や汗が伝う。
 相手は子供なのに。まだ十歳の少女なのに。
「……どうして俺にも箱が見えていると思うんだい?」
 出来る限りゆっくりと、優しい声で彼女に質す。
「お兄ちゃんは、あたしと同じだもん。解るの。お兄ちゃんとあたしは、同じなんだよ」
 ユキノはそう言い切って、にっこりと微笑む。
 可愛らしい笑顔。だが俺は、その笑顔を見るのが怖かった。


 研究所に着いた俺達を出迎えたのはバーナー主任とアリシアだった。
「アリシア、どうしてここに?」
「立ち会ってくれって、主任に呼ばれたのよ」
 アリシアの視線の先、バーナー主任はユキノと楽しそうに話をしていた。確かバーナー主任には同じくらいの年の子供が居たはずだ。扱いには慣れているのだろう。
 だが、俺は。
「どうしたの、ケイジ? 何か様子が変だけど」
 ユキノの言葉が、瞳が、脳裏に焼き付いて消えない。
 畏怖、とでも言うのだろうか。あんな小さな子供なのに、何かとてつもなく大きくて怖ろしいものに思える。
 まるで夜の、あの得体の知れない暗闇の様だ。
「ケイジ?」
「いや……大丈夫だ、何でもない」
 バーナー主任にも報告すべきだろうか。
 そう思い至ってようやく、ボイスレコーダーの存在を思い出す。これを提出した上で話をすれば、少なくとも 俺の言葉に説得力は出るだろう。
 バーナー主任と話すユキノは、どこにでも居る少女に見える。
「可愛い子ね」
 何も知らないアリシアはそう言って微笑んだ。
 母親にも似た、優しい笑顔だった。

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