小説『Life Donor』
作者:bard(Minstrelsy)

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

「今のあなたは酷い傷を負っています。このまま生き続けたとしても、後遺症や障害で苦しむかもしれない。それだけならば、まだ良いでしょう」
 カクリは机の上に置かれた時計を指でなぞる。僅かに残っていた燐光が、吸い込まれるように消えた。
「あなたの支えである最愛の息子さん……その記憶を失っている可能性もある。そればかりか、彼の存在そのものが奪われるかもしれない。あなたの事故を理由に、ね。あの人ならやりかねないでしょう」
 義母の事を指しているのは明白だった。みつきをあれ程嫌っている彼女が、優一を取り上げる事に躊躇などしないはずだ。シジマはその存在を思い出し、陰鬱とした気分になる。みつきも身を強ばらせていた。
「私の一番の支えは確かに息子です。でも、息子だけじゃない。夫も居ます」
「夫、ですか」
 カクリはみつきの言葉を一笑に付した。気色ばむ彼女に、カクリは冷ややかな視線を投げる。
「あなたの訴えに、彼は耳を傾けましたか?」
「それは……。けれど、夫には夫の考えがあったのかもしれません。仕事での疲れだって……」
「だから、あなたに無理を強いていた訳ですね」
 彼の口調は飽くまでも穏やかだったが、言葉は氷よりも冷たかった。
「もし何らかの考えがあったとしても、あなたの夫はあなたの力にはなってくれなかった。あなたの訴えに何もしなかった人が、果たしてあなたを守るでしょうか。母親の言いなりとなって、あなたを見捨てるかもしれない」
 自分の事ではないのに、シジマの心は寸刻みで削られていくようだった。生きる意思と覚悟を試しているのだろうが、これは拷問だ。
 だが、生きると決めれば、これ以上の拷問に耐えなければならない。あの義母の凄惨な仕打ちが待っている。それでも良くなるとみつきは信じているらしいが、シジマにはそう思えなかった。
「全てを失うかもしれない。死にたくなる程に辛い思いをするかもしれない。それでもあなたは、生きられるのですか?」
 カクリが静かに問うた。
「生きられるわ」
 みつきの声に迷いは無かった。
 どうして。シジマはそう口に出していた。みつきが困惑したように彼を見る。
「あんなに辛い目に遭っていたのに、どうしてまた生きようなんて思えるんですか」
 当事者ではないシジマですら逃げたいと思った場所に、何故戻りたいと望むのか。暗い瞳で問いかける。
「言った通り、息子のためよ。それに、今は辛くても、それがずっと続く訳じゃない。いつかは……きっと」
 いつになるか解らない、そんな不確定な希望を持ち続けられるものなのか。シジマには理解出来ない。みつきはじっと彼を見つめている。息を詰めて、ただひたすらまっすぐに。
「全て、息子さんのため、ですか」
「それが、自分のためでもあるわ」
 シジマの最後の問いに、みつきが首肯した。
 沈黙を、秒針が刻んでいく。
 生き続ける覚悟。それは、命を絶つと決めた自分とは真逆の、強く厳しい思いだ。シジマは彼女から視線を外す。射抜かれそうな目に、彼の心は耐えられなかった。
 彼女から外した視線を、カクリへと向ける。兄のような笑みを浮かべ、カクリはシジマを覗き込む。
「決めたのかい?」
 シジマはゆっくりと頷いた。
「俺には、あんな思いをしてまで生きたいと思える理由は、何度聞いても理解出来ません。辛いと解っていても子供のためだと耐えられる、そう言い切れる事自体も信じられません。だけど」
 言葉を切り、きつく目を閉じる。
「生きたいと望むのなら、生きるべきだと思います」
 彼は吐き出すように宣言した。小さく息を飲む気配。再び開いた視界に、驚きと喜びがない混ぜになったみつきの顔があった。
「良いんだね」
「そうするしか、ないと思うから」
 念を押したカクリは、シジマの答えに優しく微笑んだ。
「解った。君がそう決めたのなら、それに従うよ」
 カクリはみつきに向き直る。
「浦川みつきさん。審判は下りました――あなたを、現世へ戻します」
 彼は机に置かれていた時計を手に取り、瞑目する。指先から燐光がこぼれ、再び時計を覆い始めた。
「一体、何をするんですか」

-7-
Copyright ©bard All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える