小説『ダーウィンが来た』
作者:市楽()

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ダーウィンがいた。あいつは駅前商店街にある電柱の影にひょろ長い身を隠すように立っていた。

そんなあいつを見つけたおれと目が合うと何かを含みながらにやりと笑った。

ダーウィンが声をかけられる前におれに気づく時はなにかを企んでいる。

こちらは仕事帰りなので疲れた時やしんどい時なら無視して帰るところだが、今日はまだ元気なので付き合う

ことにした。こちらに来る気配がないので、仕方なくおれの方からダーウィンが潜む電柱へ向かう。

買物時で混み合う商店街を進むのは一苦労で、やっとのことで曲がり角にあるダーウィンが潜む電柱にたどり

着く。おれが声をかけると、ダーウィンは挨拶を返さずに「教えて欲しいことがあります」といきなり本題に

入った。どうせダーウィンが魅了されてやまない商店街のことだろう。

最近は会うたびに質問されており、もうこれ以上はおれに教えられることはないぐらい駅前商店街に精通して

いるはずだ。これ以上はおれの手に余るので主婦や店主といった専門家に聞いて欲しい。

質問を待っているとダーウィンは「こっちです」と手招きしながら、本通りから横にそれて裏通りへと続く

小道に姿を消して行った。商店街の本通りを制覇したダーウィンの興味は裏通りへと移ったらしい。

そのままダーウィンの後についていくと、赤々とした光、鼻をくすぐるなんともいい匂いと賑やかな笑い声に

包まれた裏通りに出た。

ダーウィンが指さした先には赤提灯と暖簾が出迎えてくれる店がいくつも並んでいた。

ダーウィンはその一つを指さして、「あのお店は何ですか?」と含んだものを抑えきれていない笑顔で聞いて

きた。あえて聞かれたままに、あれは居酒屋で酒を呑む店だと教えてやった。

ダーウィンは「なるほど、パブですね」と言った。ダーウィンは時々地元の言葉を使う。

「これは興味深いです。ぜひ、地元のパブと比べてみたいですね」とダーウィンは続けた。

これが言いたかったのだろう。すでにダーウィンの好奇心は居酒屋の暖簾を潜っているらしいことが、

目の輝きから伝わってくる。

まだ過ごしやすいとはいえ、昼の暑さが残る初夏の夕暮れになかなか素敵なことを言いやがる。

最近、晩酌禁止令が出ているので、このままダーウィンの企みにのってしまいたくなる。

しかし、晩酌禁令を破るほどの財力と度胸が今のおれにはない。

残念だが、今日もこのまま真っ直ぐ帰るしかない。金が無いとはダーウィンに言いたくはないので

「晩飯作って待ってくれている人がいるんだから帰るぞ」と言ってみた。

我ながら情けないが、嫁のことを出すとダーウィンは結構素直に従う。

久しぶりの一杯を逃したダーウィンは花が萎れるように笑顔を失うとがっくりとうなだれてしまった。

さっさと家路に向かったおれについて来ないのでゾウ亀がしょうがないよ、と諭すように首を伸ばして進めと

押していた。

あまりにがっくりされるとおれも悪いことをした気になってしまう。

胸が痛むのとおれもたまには外で呑みたいこともあり、つい「次の給料が出たら、行くか」と言ってしまう。

すると蕾が開くようにダーウィンは笑って「絶対ですよ」と言うのだった。

ダーウィンの思う壺にはめられたようなので、せめてもの抵抗で「忙しかったら無理しなくていいんだぞ」と

言ってみた。するとダーウィンは「大丈夫ですよ。その辺りならスケジュールは調整できます」と答えた。

ダーウィンはおれの給料日を知らないが、おれはダーウィンに調整するほどの用事がないことを知っている。

ダーウィンは毎日暇を持て余している。

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