小説『ダーウィンが来た』
作者:市楽()

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「もう我慢できません」我慢の限界を超えて、半泣きでそう叫ぶダーウィンがいた。

店中の視線がダーウィンに集まり、静まりだす。

それでも止まらない紳士の苦労話のおかげでおれは頃合いを見測り損ねてしまった。

紳士の苦労話に相槌を打ちながら、ダーウィンがどうするのか他の客と一緒に見守る。

「なんですか、あなた達は。一杯奢ってくれた時はなんて素敵な人達だと思わせといて、

さんざんわたしを弄ぶだなんであんまりですよ」とダーウィンは続けた。

そこまでのことかと言いたげに大工達は顔を見合わせる。

さらに「さっきから聞いていれば、わたしが仕事をしていなくて何か迷惑をおかけましたか!

そうです、毎日暇ですよ。暇の何が悪いんですか!」と大工達に向かって震えながら啖呵を切った。

毎日暇なのはだめだろう、という店中の心の声が聞こえた気がした。

ダーウィンにも心の声が聞こえたのか、または自分で言って傷ついたのかしゃがみ込んでしまった。

あれで、案外暇なことを気にしていたらしい。

しゃがみ込んだダーウィンからとうとう嗚咽が漏れだしてきた。

おれや、そばにいた大工が思わず声をかけようと近づいた時、ダーウィンはすくっと立ち上がった。

ぐしゃぐしゃになった顔でダーウィンは「確かにわたしは毎日暇を持て余しています。

けど、自分が学者だということを忘れた日はありません。なぜかわかりますか!」と一人の大工に問うた。

わけが分かるはずのない大工は、ただ首を横に振った。

ダーウィンは鼻を鳴らしてから「それはわたしにガラパゴスがあるからですよ」と言い切ってから、

ダーウィンは「あなたにはありますか、ガラパゴス!」と大工を問いただした。

問いただされた大工はぼそりと「ガラパゴスってなんだ?」と言った。

ダーウィンとおれを除く全員が頷いたのが分かった。おれもガラパゴスについてはよく知らない。

だけど、ガラパゴスについて語るダーウィンのことは知っている。だから、あいつにとってガラパゴスが

どういうものかをおれは知っている。ダーウィンは腕を組んで大工の答えを待っていた。

ガラパゴスが何かいちいち説明する気はないらしい。おれは紳士に断りをいれて強引に話を終わらすと、

大工とダーウィンのもとに近寄り「あなたの大切なものをそいつに言って下さい」と言った。

困惑した表情を浮かべていた大工だったが、それで分かってくれたらしい。

真剣な表情に変わり、大工は自分の大切なものを思い浮かべ始めた。

目の前にいる大工がどんなガラパゴスを口にするかを見守っていると、ふとおれにとってのガラパゴスは

なんだろうと思った。その時、嫁さんの顔がおれの頭に浮かんだ。

「おれにとって一番大切なのは母ちゃんとうちの坊主、家族だ」と大工は力を込めて行った。

男らしい立派な答えだ、何人かの客達が頷いている。

ただ、あの紳士を含めて何人かはピンとこない顔をしていた。さて、ダーウィンはどうだろう。

「ち〜が〜い〜ま〜す〜。ガラパゴスはもっとキラキラしていてワクワクするんです!家族とかそ〜ゆ〜の

じゃないんです!」とダーウィンは怒るように言い返した。

話が違うと大工が言おうと振り向いた時には、すでにおれはダーウィンに掴みかかっていた。

「みんな、それぞれのガラパゴスを持っているんだ。それのどこが悪い。だれもお前のガラパゴスを馬鹿に

しない。だからお前もだれかのガラパゴスを馬鹿にするな。ガラパゴスってそういうもんだろ」と

いつの間にかおれは叫んでいた。予想外の事態にダーウィンはよほど驚いたのだろう。

腰を抜かしそうになっていた。おれだって驚いている、この後どうしよう。

この状況をだれが収めるのかと店中の人間が固唾を飲んで見守った瞬間、意外な人物が手を挙げた。

「そこのひょろ長いお兄さん、わたしのガラパゴスも聞いてい下さい」と言ったのはあの苦労人の紳士だっ

た。紳士はこほんと咳払いをしてから「わたし温泉を掘っているんです。いつか温泉が湧き出たら、

この町に健康ランドを作るんです。その健康ランドこそがわたしの湧き上がるガラパゴスです」と言った。

そういえば、さっき温泉さえ湧けば出て行った奥さんと子供が孫を抱いて帰ってくるはずだと涙ながらに

語っていた。ダーウィンは遠慮がちにおれを見た。目が合うと、ダーウィンとおれは何かが通じ合った。

これを逃す手はないと思ったおれは黙って頷いてみた。

するとダーウィンは親指を突き出して「とっても素敵なガラパゴスです」と満面の笑みで答えた。

すると次に、わたしだってと言いながら手を挙げたのは、いかにも真面目そうなサラリーマンだった。

「いつも社長の息子だからって威張っているあの若造をいつかぎゃふんと言わせてやりますよ。

憎い上司をガツンとガラパゴスですよ」と拳を振って叫んだ。勤め人の切ない咆哮にダーウィンは

「う〜ん、ノーガラパゴス。でも、個人的には応援しますよ」と励ました。

じゃあ、おれはと言いながら今度はまだ学生のような青年が手を挙げた

「おれ、世界中を見て回りたいんです。世界一周旅行、それがおれの果てしないガラパゴスっす」

と溢れる情熱をのせた拳を突き上げて叫んだ。そこからは客達が自分のガラパゴスはどうだと、

我も我もと言い始めてガラパゴスの自慢大会になった。その中心でダーウィンは嬉しそうにしていた。

なんとか、ややこしい事態だけはさけることはできそうだ。

目論見が上手くいったので、ガラパゴスの輪から少し離れたおれにさっきの大工が声をかけてきた。

「なあ、結局ガラパゴスってなんだ?」可愛そうにまだ気にしているらしい。

気にするだけ疲れるだけなのに。だからおれは「実を言うとおれもよくわからないんです」と

笑ってごまかした。それでも釈然としない様子だったので、「だったら、あれに参加しませんか」と

ガラパゴスの輪の中心をおれは指さした。ガラパゴス自慢の収集がつかなくなったので、

誰ともなしに呑み比べで自分のガラパゴスを競い始めた。思った通りみんなただ酔っ払いなので、

楽しく呑めればそれでいいのだ。

「それなら分かりやすくていいな」と大工は嬉しそうに言った。

「ひょろ長い兄ちゃんは気に入らなかったみたいだが、おれのガラパゴスの底力を見せてやるよ」と厚い胸板

を叩くので、「おれのガラパゴスがお相手させてもらいますよ」とおれは答えた。

結局、おれも大工も楽しく呑みたい酔っ払いなのだ。

ダーウィンはというと一番騒いでいたくせに、2杯呑んだだけでへたり込んでいた。

あいつは呑みたがるくせに、すぐに酔い潰れてしまう。

おれも大工との一騎打ちで朦朧とするまで呑む羽目になり、気が付くと店の中はガラパゴス、ガラパゴスの

大合唱となっていた。

 盛り上がりが最高潮に達すると、そろそろお開きということで歌手を目指していたタバコ屋の親父さんが

作詞作曲した『俺達のガラパゴス』をみんなで歌った。

やかましくも楽しい、ガラパゴスな夜はこれにて終わった。たまにならこんな夜も悪くはない。

本当にたまにならだが。

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