小説『ダーウィンが来た』
作者:市楽()

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 一人ですっきりしていると、ダーウィンがすっきりとしない顔で聞いてきた。

「あの〜、さっきから気になっていたんですけどあの大工さん誰ですか?」と。

思わず言葉が出なかった。あんな騒ぎを起こしておいてダーウィンのやつは何も覚えていなかったのだ。

あの夜の記憶まで酒で流れてしまったらしい。どうりで掴みかかったことを気にする素振りもなかったはず

だ。少々気まずい思いをしていたのはおれだけだったらしい。

 それにしても、ガラパゴスな夜はダーウィンにとって忘れてしまうような一夜だったのだろうか。

少なくともおれは忘れたいとは思わないし、それはダーウィンも同じだと思っていた。

ダーウィンは海を越えてやって来て、一つの季節が過ぎる間この町にいた。

暇を持て余したダーウィンはこの町で様々な人達と出会い、関わってきた。嬉しいこと、嫌なこと、辛かった

こと、楽しかったこと、色々あったはずだ。それもダーウィンはすべて忘れてしまうのだろうか。

思い返すとダーウィンからガラパゴス島以外の話を聞いたことがない。

旅で訪れた町や出会った人々のことは忘れてしまったのか、それとも何も残らなかっただろうか。

だったら、この町のこともいつかが来ればダーウィンの中から消えてしまうのか。

それではおれも、ダーウィンも寂しいじゃないか。

いつかが来ても、きっと共に過ごした時間や記憶は残ると信じていたのに。

おれはどうしたいのだろうか。ダーウィンに忘れられないような記憶を刻み込めばいいのか。

いや、おれはダーウィンにトラウマを残したいのではない。

いつかダーウィンにこの町のことを誰かに話したり、思い返したりして欲しいだけだ。

そうなるようにダーウィンとこの町でしばらく忘れ難い日々を送りたいと思う。

それが、おれの願いがダーウィンに伝わる方法でもあるだろう。

忘れ難い日々はきっとダーウィンにガラパゴスな人を作ってくれるはずだ。

 ささやかな決意が固まり、思わず大きく息を吐いた。

それに驚いたダーウィンが目を開いてこっちを見ていた。人の気も知らないで呑気なものだ。

こんな調子で大丈夫だろうか。いや、こんな調子だから大丈夫なのかもしれない。

おれの気も知らないでダーウィンは八百屋の女将さんからもらったクズ野菜をパゴスにせっせとやっていた。

どうやら、もう一つの願いは杞憂に終わってくれたらしい。ダーウィンとパゴス、なかなかいいコンビのよう

だ。

 しかし、ここまできてなんだがガラパゴスってなんだろう。

かなり重要な言葉だとは思うのだが、よく分からない。そもそもおれのガラパゴスってなんだろう。

大工みたいに仕事だろうか、やりがいはあるがガラパゴスとまでは言えない。

かといってダーウィンや紳士のように夢もない。おれにガラパゴスはないのだろうか。

と言いながら、さっきからある人の顔が頭の中を埋め始めている。どうやら抵抗しても無駄なようだ。

そうだ、おれにとってのガラパゴスは嫁さんだ。どうだ、まいったか。こうでも言わないと耐えられない。

おれのガラパゴスが嫁さんだとして、ちゃんと大切にできているだろうか。

このままおれが呑みに行くと嫁さんは一人で過ごすことになる。誰もいない食卓で、一人テレビを見ながら

飯を食う嫁さんの姿が浮かぶ。なんだか胸の奥を掴まれたような気分になった。

 ちょうど大工が支度を終えてやって来た。おれは「すいません。早く帰らないとうちのガラパゴスが

これなもんで」と言いながら人差し指を立てて頭に角を生やしてみた。

「じゃあ、しょうがねえな」と大工は笑って許してくれたので一人で待つ嫁の元へと駆け出した。

ダーウィンが何か言いたそうにしていたが、「兄ちゃんには家で待っているガラパゴスはいないんだろ。

だったら付き合ってくれよ」と言う大工に無理やり肩を組まされて言葉になっていなかった。

そんな大工が今は頼り強く見え、慌てるダーウィンの姿に思わず溜飲が下がる。

ああいう人がいれば案外大丈夫かもしれない。念のためもう一度振り返ると、パゴスが首を横に振りながら

別れの挨拶をしてくれるのが見えた。まるで、「奥さんによろしく」とでも言っていそうだ。

名前を聞いておいてよかった。これでゾウ亀などと味気のない呼び方ではなく、

「ダーウィン、パゴスまたな」とちゃんと返すことができる。

他人のガラパゴスも大事だが、そのために自分のガラパゴスをないがしろにしていいのだろうか。

いや、よくないだろう。そういうことにして今夜はおれのガラパゴスを独り占めにさせてもらうとしよう

〜「第2章 ダーウィンがいた」〜終わり
 「第3章 ダーウィンが歌った」へ続く

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