小説『ダーウィンが来た』
作者:市楽()

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ダーウィンが歌った。別にこいつは酔ってはいない、素面である。

そもそもダーウィンは夕暮れ時からほろ酔い気分になれるほど優雅な身分ではない。

最近のこいつは気の向くままに歌い出す。時と場所を選ばないから、夕暮れ時に駅前商店街のど真ん中でも

気が向けば歌い出す。時と場所を気にしないのなら、せめて横にいるおれのことぐらい気にして欲しい。

先ほどからそんな素振りはないのだが。

だから、ダーウィンは相変わらず何を言っているのか分からない歌詞を聞き慣れない旋律に乗せて浮かれた歌

を歌っている。

 こういう時、頼りになるパゴスもダーウィンの浮かれた歌に合わせて甲羅をフリフリなんかしちゃって御機

嫌だ。浮かれた一人と一匹の分も、おれは商店街を行き交う人々の困惑した視線と夏の暑さだけではかけない

量のじっとりとした嫌な汗に耐えねばならない。

まさか、地元の商店街で孤立無援の意味を身を以て知ることになるとは・・・・。

 それでも待てば「終わり」とは来るもので、ビブラートを必要以上に利かせて惜しむようにダーウィンは

歌い終えた。これでもう買い物途中の奥様連中に指を指されてひそひそ話をされるのも、お母さん方に子供の

視線からおれ達を逸らせて警戒されるのも終わりだ。そんな当たり前のことがなんだかとても嬉しい。

つい、そんな感慨に浸ってしまい「終わり」があればまた「始まり」もあることをおれは忘れていた。

ダーウィンは息を整えて、咽喉の調子を確認し始めていた。ダーウィンは2曲目を歌うつもりだ。

視線が刺さり、チクチクを通り越してズキズキし始めていたおれの我慢もここまでだった。

「ダーウィン、恥ずかしいから歌うのやめてくれ」となんの捻りのない言葉をおれは絞り出すように口にして

いた。絞り出せたのは囁く程度の声だったが、ダーウィンの耳には届いたらしい。

数瞬をかけておれの言葉と意思を咀嚼したダーウィンは眉間に皺を寄せた。

くるりとおれに振り向いたダーウィンは下唇を突き出して

「何が恥ずかしいんですか?」とあからさまな不満顔で聞いてきた。

「いや、皆が見ているだろ」と努めて冷静におれは答えた。

「だから、それがなんですか?」とダーウィンはさらに言うので、

「だから、さっきから周りに見られてんだよ」とやや冷静さを欠いておれはさらに答えた。

「見られたからってなんだっていうんですか!それが悪いことですか」とダーウィンはさらに下唇を

突き出しながら言うので、「悪くはないけど恥ずかしいだろ」とやや興奮しておれは答えた。

「悪くないならいいじゃないですか」と目をわざと逸らしてダーウィンが言うから

「良いとか悪いとかじゃないんだよ。悪くなくてもやめて欲しいんだよ」と冷静さを横に置いておれは

捲し立てた。そんな不毛なやり取りを十分ぐらい続けただろうか、

「わたしの歌の何が悪いんですか!もう知りません。歌を笑う者は歌に泣けばいいんです!」という捨て台詞

を残してダーウィンは頬を膨らませ、逆毛立ちながら歩き出した。

おれもダーウィンと少し離れて距離を保ちながら歩き始めた。

これ以上話しても、こちらが折れて謝っても面倒くさいだけだということをおれは知っている。

だから、このまま放って置くのが最良の選択なのだ。

例え、まだぶつぶつと文句を言うダーウィンの背中を蹴飛ばしたいとしてもだ。

 ふと、ダーウィンに置いていかれたパゴスを見ると下顎を歪ませて残念そうな顔でおれを見ていた。

さっきまでご機嫌で甲羅をフリフリしていた余韻はそこにはなかった。

まるで、「なんで歌うのをやめさせたの」とでも恨み言のひとつでも言いたそうだ。

パゴスお前もか、とは心の中でつぶやくとしよう。

 しばらく無言のままで駅前商店街を進むおれとダーウィンであったが、急にダーウィンが足を止めた。

ダーウィンの前を見ると人だかりができていた。思わず、ダーウィンもおれも人だかりが囲む中心を

覗き込む。

すると「うちのミーちゃんに何をするんだい!」とか

「うるせぇ、そこのどら猫がうちの売り物に手を出そうとするからだ」という言い争う声が聞こえてきた。

それぞれの声の主は魚の店主と八百屋の女将さんだ。この駅前商店街では割とよく見られる光景なので、

誰もとめずに自然と収まるのを待っている。

喧嘩友達と分かっているので、あぁ今日も元気だなとおれは妙に安心する。周りもそんな感じだ。

ただ、ダーウィンだけは一人悲しげな顔をしていた。

そう、喧嘩をしている魚屋の店主にも八百屋の女将さんにもダーウィンはよくお世話になっている。

だから、恩人の二人が言い争うのがダーウィンには耐えられないのかもしれない。

どちらの味方もできずに独り心を痛めるダーウィンは、ここでおれに自分の歌を馬鹿にされたと思い込んだ

悔しさと恩人二人を仲直りさせたいという願いを融合させることに成功した。

「いま、あなたが馬鹿にした歌の力をみせてあげます」とダーウィンはおれに宣言すると

魚屋の店主と八百屋の女将さんに近づいて行った。

おれがそんなことを言ってない、と言う前に行ってしまったのでダーウィンを止め損なってしまう。

おれの願いはややこしく伝わっていたらしい。こうなると事は面倒な方向にしか進まないだろう。

さっきから嫌な予感しかしないのだから。

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